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吉田(旧姓・横田)和子 教員系
元旧制女学校・教員
吉田(旧姓・横田)和子(1941年・日本女子体育専門学校卒)
現在無職
トクヨ先生と、清寿先生と、戦争と…

 吉田さんは昭和14年に、日本女子体育大学の前身である日本女子体育専門学校に入学しました。当時の学校の様子や、創始者の二階堂トクヨ先生、その後継者である二階堂清寿先生のことなどについてお話していただきました。

<2010.09収録>

 昭和14年に、日本女子体育専門学校(体専)に入りました。女学校の頃から陸上をやっておりましたものですから、人見絹枝さんに憧れてね、卒業したら二階堂トクヨ先生というよりは、人見さんの学校へ行きたいと思っていました。体専に行くのは、親は大反対でしたよ。当時、体操の先生は、女子高等師範学校や臨時教員養成所を卒業しても免許がおりたものですから。

 私は本科生です。当時は本科と専修科があって、違いは、教員の免許が3年でもらえるか2年でもらえるかでした。本科は本1、本2、本3、専修科は専1、専2という呼び方をしていました。本1と専1は、一緒に入学して同じ授業を受けました。本科は3年までありますので、本2は単独の授業、本3になるとまた専2と同じ授業を受けたんです。

 他に専攻科というのもあって、入学案内には体育を勉強したい教員のために設けているようなことが書いてありましたね。本科3年や専修科2年と一緒に授業を受けて、また学校へ戻られて1年間経ったら、文部省から正式の免許証がおりるというものでした。私の時も、クラスに一人ぐらいは専攻科の方がいました。

┈ 体専に入って

 1年生の入学式の時は、「もうこんなボロ校舎…、これが日本女子体育専門学校だったのか」という思いで、他のことは考えられなかったですね(笑)。でも陸上部も一応あったので、校内で自分たちの専門の競技をやっていました。

 私は声だけは大きいものですから、「あっちが悪い、こっちが悪い」と言っても人に「あら、元気そうじゃない」と言われるんですけれども、声が大きいのは、昔、体専で号令の練習をしたからです。「何で号令の練習なんか?」と思われるかも知れませんが、体操の先生と言えば、生徒に号令をかけるのも仕事です。それであの当時はね、マイクなんかないのよ。

 二階堂トクヨ校長が紋付を着て、明治神宮のグランドの一番上のスタンドから150人の生徒のマスゲームの号令をかけられている写真がありますが、私達も「前へ進め!」「気をつけ!」って、それは大きな声を出してやったもんです。体操教師になると、朝礼とかでも1000名近い全校生徒を動かさなきゃならないですからね。

 体専は全員寄宿生活ですので、毎朝、食事や清掃が済んでから、7時半か8時頃に講堂集合がありました。室長が、「何室!何の誰それ!風邪のために今日は欠席!総勢何名!」、異常がなければ「異常なし!」とか報告をします。私どもの1年の時は、本3の非常なお嬢さんがいらして、その方の報告が全く号令的じゃなかったんですね。

 トクヨ校長は「何ですかあなたの報告は!それは四畳半の報告ですよ」と言われました。逆に早口で言う人には「あなたの号令は鉋屑に火がついたみたいですね!もっと落ち着いて」と、言葉の抑揚まで微に入り細に入りご注意されました。

 校長はいつもチュニックにボロセーターで、カツラがあっち向いたりこっち向いたりしていたんですけど、やはり文科を卒業してらっしゃるだけあって訓示が独特で、形容なんかもうまかったんですよ。そんな校長の言葉のいくつかが、今も頭から離れません。

 夏休みに入ります時に講堂集合がありました。校長は壇上の後ろの黒板に「帰省」と大きく書かれて、「これは何のことかわかるか?」と言われました。「帰省とは、帰って親を省みることだ。あなた方は遊学をしているのだから、速やかに親元に帰って安心させよ」という訓示をなさいました。

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 また校長は、授業の中でこんなことも言われました。例えば、私がいつかこれを陸上の先生に話したらびっくりされていましたけど、「教育者と教授者は違う。自分は本当の教育者だ。他の先生方は教育者じゃなくて、いわゆる教授者だ」と言われました。

 それは主に実技の先生のことを言われたんじゃないかと思うんですけどね。「あなた方の教育は私がします。他の先生方は教授者です。あなた方は先生の技を習えばいい。」とおっしゃっていました。でもその通りなんですよ。トクヨ校長は何でもご自分でなすっていましたから。

 校長は、その世界の最高の方に、それこそ三顧の礼を持ってご教授を頼みに行かれました。例えばダンスだったら、バレエのテクニックを導入した高田せい子先生や、学校舞踊を指導された石井小浪先生。でも校長は「あの先生方は着てらっしゃるものからお化粧からそれなりの格好をしてみえますけど、その真似をしてはいけない」とも言われました。

 あと体育的なことでは、その当時の体操と言えば徒手体操で、これは主に二宮文右衛門先生の指導でした。副学科の方はそれこそ国語とか英語とか、そういうのは一応みんなやりました。国語ならやっぱり国語の第一人者(丸野弥高先生)を呼んでこられ、英語もそんな風に…。

┈ 寄宿舎生活のこと

 私どもの時は夜食じゃなくておやつが出ましたね。新しい寮が西の方にできて、西寮の10、11には朝鮮からの留学生が入っていました。それで校長はその方達を「西寮さん」とおっしゃっていました。それから、お百番と称したのが寄宿舎の方にありましたけど、なんでお百番と言ったのはわかりません。

 授業料は、寮費として1ヶ月21円を学期の最初に納めていました。私どもの時は校友会費はなかったですね。だいたいの方々は、親元からの仕送りは30円と言っていました。やはり学校経営は厳しかったようで、校長が「どなたか貸してください」と、講師室の辺のところで大声を出しておられました。今度はまたお返しが大変だったらしいですけどね。

 校長のモットーは「生徒に今の最高のものを見せ、最高のものを与える」というものでしたから、お相撲や歌舞伎にも連れていっていただきました。大きなおにぎりを2つ持たされて、それは楽しかったですね。

 それで競技シーズンになりますとね、だいたいが日曜も祭日もなく、明治神宮競技会などに補助員として出かけて行きました。私達は普段チュニックを着ておりまして、チュニックのビロードのところに「体専」、それから「奉仕員」と書いたリボンを付けまして、記録とか、走る方だったらゴールのテープを持って引っ張るとか、競技の補助的なことをやりました。

 私はほとんど陸上競技担当でした。走る方なら「ヨーイドン」でもうそれでいいですけれど、種目によっては何時間もかかるのもあります。その間はずっと直立不動でいなくてはいけないので、そういうことにも耐えられるよう鍛えられました。

 当時の選手たちからは「体専の生徒たちの前では姿勢は崩せない」と、非常に評判がよかったと聞いております。後に、それこそ織田幹雄さんや西田修平さん、原田正夫さんだの錚々たる方々から「あなた方、立派だったよ」と言われました。

 校長は学連の創立にも関係しておられて、学連の競技会には必ず補助員を出されました。ところが、陸連へは生徒を出さなかったんですよ。それはベルリンオリンピックの選手選考について、何か校長の気に入らないことがあったからだと聞いております。

img (右)故・大島(旧姓・片岡)澄江さん (1935年度・日本女子体育専門学校卒)

┈ トクヨ校長の授業

 本2になって新入生が入って来ました。入学式で校長は、例の大きな声で「ご父兄のみなさん、大事な娘さんは、確かにこの二階堂トクヨがお預かり致しました。立派な日本刀に仕立て上げますから、どうぞご安心ください。」とおっしゃいました。それが実に堂々としていて、新入生達も「感銘を受けた」と話していました。

 本2は専修科との合同授業はないですから、空き時間もけっこうあってのんびりしておりました。何と言っても、本2の時は校長の単独授業が受けられたんです。それは何曜日の何時というのじゃなくて、「今日、空いているからやろう」という感じで、講堂が空いている時と本2が空いている時、そして校長自身が空いている時の3つが揃えばやっていました。

 校長は講堂で「腕を上に伸ばせ」と言われたまま、ご自分の留学時代の話をされたりして、私達の誰かが腕をうっかり下ろそうものなら目ざとく見つけて「だらしがない!名前を言え!」と怒られました。

 それとか、肋木を良く利用されていまして、私達に肋木にあがって反面懸垂(逆立ち)をさせ、「へそ、あばらのごとく閉めよ!」って大きな声で言うものですから、私は「ぷぅっ」と吹き出してドスンと落ちたんです。それでまた「だらしがない。名前を言え!」と怒られましてね。

 また逆立ちの練習では、一人が肋木に向かって逆さまに足をあげて一人がわきについて補助して、号令と一緒に足をあげたら、補助が真後ろにいたもんだからベーンと蹴られてぶっ倒れたのよ。その時は怒られたのは補助の方で、「あなたは補助の役目をしていない。蹴った方は全く正しいことをしてる」と。そういうこともありましたね。

 体操の授業では、ハンゼン、ハンギョク、イッピセンダツなんてやりました。イッピセンダツ、今でもできますけどね。ダンスの時は「ダンスというのは腕が主だけど、最長距離の運動をしろ」、体操では「徒手体操は最短距離だ」ということを言われたのが耳に残っています。校長は生徒のことは絶対的に信用していて、生徒にはほんとうに何でもおっしゃいました。

 ある時「この胸のあたりにグリグリとしたものがある」と言われました。「非常に体調がよくないから、私に万一のことがあった時は、二宮先生と加藤先生(加藤信一)に相談するように。全て任せてあるから」という意味のことをおっしゃいました。そして「私の亡き後は、学校は国家に寄付するつもりだ」ともおっしゃいました。それは本2の授業中のことですから、私どもの学年しか知らないことです。

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┈ 戦争の影とトクヨ先生の死

 昭和15年に予定されていた東京オリンピックを閣議でご辞退するということがありまして、校長は「これからは女子体育だ」とおっしゃっていました。「もう選手制度をやっている時代じゃない」と思われたのではないでしょうか。戸山学校から教官がきて、教練と称して軍事訓練をやったりもしいました。それこそ文部省に申請しなきゃいけなかったからね。

 配給制が始まり国民服もできて、日本は戦争に対して総動員体制になっていきました。もう今までのような自由な授業はできず、競技会のやり方も競技名も変わって、戦争にまつわる競技会のようなのが、投げるのは短棒投げだとか障害物だとか色々ありましたね。でもそういうのは、校長が亡くなってからです。

 トクヨ校長が亡くなられた当時のことを知っているのは、もはや私どもだけですので、これからお話することは、私の同級生にも確かめたことです。

 本3の始業式が終わって、校長はご自分の部屋に帰れなくて、5室と6室の間の廊下にうずくまっておられました。それで誰かが「どうですか?」と言ったら、はらいのけるようにして、例の調子で「大丈夫ですよ」と言われたのね。それ以上のことをしましたら、また「大バカもの」と怒られるから、みんな黙ってそれぞれの部屋へ戻りました。

 その後、校長がどうやってあそこから校長室まで帰られたかわかりません…。私はそれが、校長を見た最後になってしまいました。

 翌日の入学式、みんなが揃って時間がきたものですから、総長の泉志津江さんが校長をお迎えに行きました。ところが校長は寝ておられて、「ここへ来なさい。今から私の言うことをよく聞いて…」と、滔々とお話をなすったそうです。イズミさんは、「校長が今日はこういう状態でご出席はできません」ということをお話しになって、校長ご不在のまま立派に入学式を済ませました。

 それから間もなく、トクヨ校長の姪の二階堂美喜子先生が呼ばれて、校長は海軍病院にご入院されました。その時にはもうご自分では立てなくなっていたようです。それから二宮先生と加藤先生も呼ばれて、校長のご希望で慶応病院へお移りになられました。

 慶応病院へ移って、校長は「私は看護婦さんよりは生徒の手を借りたい。」ということで、毎週土曜日の午後に、体格のいい3、4名の学生がお見舞いかたがた、シーツの交換とか看護婦さんの手伝いで慶応病院へ行っていました。

 そこへ、校長の弟の二階堂清寿先生が見えたんです。ところが校長は「何しにきた!」とすごい剣幕で、「知らせてないはずだ!とっとと帰れ!」と、「これが病人か」と思うような声をして怒鳴られたそうです。「ミキちゃん、あんたが知らせたんでしょう!」と本当にすごい剣幕だったそうで、先生を呼んだ美喜子先生も困られたご様子でした。

 学生たちが学校へ戻って来て「病院に行ったらこうだったのよ」と、今見て来た通りをみんなに知らせたもんですから、私どもとしては「そこまで信用されていない人達なのか…」となるわけです。

 トクヨ先生の著書なんかを読んでいると、校長も若い時には結婚願望は大いにあったらしいですね。でもあの当時の校長には相談するような人はいなかったし、唯我独尊じゃないですけれど、人をあてにできないんですよ。そういう余裕もなかったんでしょう。

 ただ誰かに相談していたら、あそこまではできなかったかもしれないですね。私が本3の夏休み中の16年の7月に、トクヨ校長はお亡くなりになられました。胃がんだったということです。そして生前にご自分でご用意されていた、泉本願寺のお墓に埋葬されました。享年61歳でした。

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┈ 二階堂清寿校長

 夏休み中も「講習があるからちょっと出て来い」と美喜子先生から連絡がきたりして、私はちょくちょく学校へ行っておりましたが、その時に清寿先生から「母校へ行って卒業後のことを相談してくるように」というお話がありまして、京都の母校へ参りました。

 当時の女学校は男の体操の先生がほとんどで、女子のクラスも兼ねていました。ただダンスはもちろん教授要目でありましたし、男はどんどん徴用で戦争にとられていくものですから、銃後の勤めと言うか、女の先生は引く手あまたでした。母校の体操の先生には「横田さん、最初が肝心だよ。」と言われました。当時は高等女学校の他に、3年間で実用を学ぶ実科女学校とかがあって、「最初にそういうところへ行くと後はなかなか大変だから」と。

 ところがその後、母校の校長からお電話があったのは「京都の実科女学校へ話を決めて来た」ということで、母は「行きますのは本人でございますので、娘に話をいたしましてからお返事させて頂きます。」と言ったそうです。私は体操の先生から言われたことが頭にあったのでお断りをしました。「これでもう京都へは足は向けられないな。」と思いました。

 9月に夏休みが終わって学校へ戻ると、下級生も全部揃った始業式で、二階堂清寿先生が校長として座っていました。「とっとと帰れ!」と怒鳴られた方が校長をされているものですから、私どもの眼には「学校に乗り込んで来た」と映るわけで、穴水先生のご本の中で、美喜子先生が「トクヨ校長が亡くなった後、私どもが清寿先生の排撃運動をやった」と書いていらっしいますが、それは確かにその通りです。

 どうしても納得がいかない私どもは、夜になると寮の部屋に美喜子先生を呼んでは「私達は清寿先生は絶対に認められないから」と訴えました。美喜子先生は確か、トクヨ校長が入院なすった時か亡くなられたと同時に、まだ25歳かそこらの若さで学校の理事長になられていました。でも美喜子先生もどうしていいかわからないのよね。

 校長は一時の感情でもって入院を知らせてなかっただけなのかも知れません。そこは兄弟のよしみといいますか、小さい時から一緒に育っていますからね。「あれ送れ、これ送れ」ってトクヨ校長からも随分ご注文はあったらしいんです。

 清寿先生は、仙台の教育委員か何かの視学官をしていられた方ですから、体育とかスポーツにはまったく関係のない人です。私がまたこんなこと言うとなんですけれど、体専が、よその専門学校みたいに大学になれなくて、けっきょく短大ということで何年かいきましたわね。体育界に人脈もない仙台からポッと出てらしたばっかりの方だから、大学への昇格が遅れたと思うのは、半分以上卒業生のひがみもあるんでしょうけどね。

 あの当時の清寿先生は、学校経営と学生を無事に卒業させるという、それだけでいっぱいだったものですから、就職の面倒まで見る余力はありませんでした。当時は同窓会もございませんでしたから、OGの先輩が「今度は向こうがあきそうだ」「新卒だからやっぱり経験のある先生の元にいたほうがいいだろう」とか色々考えて、卒業生の就職の面倒を見てくれていました。

 あの当時、女性が職業を持つということは、髪結いさん(美容院)か学校の先生ぐらいしかなかったんです。でもそろそろ女子の職業教育というか、職業婦人が脚光をあびる時代でもありましたね。

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┈ 太平洋戦争開戦と卒業

 私は「就職はすぐ決まるだろう」なんてタカをくくっていましたら、母校の校長と喧嘩みたいなことになってしまって、当時、本3は22、3名でしたが、他の人はどんどんほとんど決まっていって、私とあと1人か2人ぐらいだけが残っていたんです。

 そんな時にたまたま、三重県の県立女学校の副校長が、講習で東京へ来た帰りに体専へ寄られました。その時に私もお会いして、その場でご返事はしなかったんですけど、副校長が学校へ帰りましてから校長からお手紙がきましてね。

 清寿先生に「こんなのがきてるよ。」と言われて見たら、立派な巻き紙に「本校は伊勢の学習院と称しまして創立何年…、県下の才媛が集まっており…、文部省の講習の時には県を代表して本校の先生が出て県下に伝達をするような立場にあるから、そういうことを良くわきまえておいで下さい…」と書いてありました。

 「私、こんな恐ろしい所へよう行かんわ」と言ったら、清寿先生は「昔から『伊勢は津で持つ津は伊勢で持つ』ということがあるだろ。『伊勢は横田で持つ横田は伊勢で持つ』という風にしたらいいじゃないか」と、そう仰ったんです(笑)。

 11月に入ると時局も逼迫してきて、清寿先生に「あなた方も浮ついたことをやっていたらだめだよ。12月はもう卒業だよ」と言われました。12月8日に太平洋戦争が始まって、もう授業どころじゃなくなったんですよね。

 12月の20日頃には、本科も専修科も全部休みに入りました。本3だけは、12月の30日ころまで授業をしましたかしら。30日ぐらいに、学科室で在京の学生だけ出席して卒業式らしいことをしていただきました。その後に、卒業証書を持ってトクヨ校長の墓前にご報告をして、皆さんと「はいさようなら」。それでおしまいでした。

 この写真のどこかに私もいるはずです。ただちょっと自分自身がね…、眼鏡かけないとわからないのよ。この人と仲良くしてたから、この人の隣に行ってたわけじゃないわね…。それで卒業してだいぶ経ってから、「私達の卒業証書には、二階堂清寿の校長の印がない」という話が、誰言うとも無しに伝わってきました。

 その時にはもう、津へ行ったり京都へ帰って来たりしていて、「卒業証書、はて、どうしたかな?」と思ったんですけど、だけど考えてみたらね、「そりゃあなた。私達、あんなに反対したんだし最後まで校長と認めなかったから、清寿先生も『校長の印を押したるか』と、押さなかったんじゃないかしら」っていう話になったんですよ(笑)。

 「文部省の免許証は大事だから」と思って、卒業しましてからも持っていましたよ。だけどもう教師は退職して家にいますし、私が持っていても何にもならないから、「学校へ寄付しましょう」とお送りしたんです。学校は「元はお預かり致しますからコピーをしてお送り返します」と言って、裏もコピーを取って送り返してくださいました。

 「トクヨ先生は本当の教育者だった」と思うけれども、私もやっと今頃になって「清寿先生も本当の教育者だった」と気がつきました。もう遅いけどね。

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┈ 人見像を建てる

 最後に「何か学生に」と言われましたけれど、今さら「日本女子体育大学へ何かを期待する」とか「これを言いたい」とかはなくて、私は本当にここ何年間、あれができるまでは一所懸命でした。

 二階堂トクヨ先生がイギリス留学から帰って来られて、日本女性の体格があまりに貧弱だったものですから「これではいけない。これからは女子体育が重要だ」ということで二階堂体操塾を始められましたね。その体操塾へ、人見さんは彼女の素質を見込んだ岡山高女の校長と体育の先生の非常なる薦めによって入られました。

 ところが、トクヨ校長はだいたいが選手というものがあまり好きじゃなかったんですね。選手の性格が何と言うか、ひねくれてるところがあると。それで始めのころは、校長は人見さんもあまり気に入られてなかった。でも人見さんは文筆にも優れているし指導力もあるということをだんだんとわかってこられて…。

 その後、人見さんが競技会などで活躍をされたことで、女子体育ともうひとつ選手制度というのも学校の方針にされたんだと思います。当時、体育の専門学校はなかったですから、トクヨ校長は「いずれは専門学校に」ということも考えていらしたし、それで人見さんを利用なさるというところまではいかなかったでしょうけど、人見さんの力量を大いに買っていました。

 人見さんの方も、入った当初は「こんなはずじゃなかった」というところもあったらしいですが、先生の人格に触れるところもあったんでしょう。専門学校に昇格させたいという思いが、お二人にあったと思います。大正15年に専門学校になった時は、「ふたりで手を取り合って喜んだ」と人見さん自身が書いていらっしゃいますから。

 ただやっぱり見解の相違があったんでしょうね。大阪の毎日新聞のお話があって、人見さんが「大阪へ行きたい」と申し出た時、先生は「絶対駄目です。」と拒否されました。人見さんにはそこまでの見通しもなかったのかもしれないけれど、先生は後継者にしようというお気持ちが非常にあったんですね。

 人見さんは「もう許してもらえないんだったら、黙って出るよりしょうがない」と、黙って大阪にいらっしゃって…。それを先生は絶対許さないんだもの。先生も自説は曲げないし、人の弁解は聞かないから。それで亡くなるまで…。人見さんはその後、アムステルダムオリンピックで銀メダルを取られて、国際女子オリンピックにも行かれたのですが、その後間もなく24歳の若さでお亡くなりになってしまいました。

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 私はOG会の会長も何年かいたしましたし、その後も陸上の激励会などで度々大学へ来ておりましたけど、人見さんがあれだけ世界的な方なのに、同窓会館に2、3枚の写真があるだけで他に何もないものですから、「人見さんの記念になるものが何かあれば」と思って、20何年通っていました。

 先生方とはそういうお話もあまりしなかったんですけれども、ある時、人見像を立ち上げるための趣意書を作って、学長の金子先生のところに持っていったんです。ここの先生はだいたいがご自分のことしか考えてらっしゃらないような方が多いんですけど、金子先生はさすがにオリンピックまで行った方だけあって、「どうぞ協力しますから何でも言ってください」と言っていただきました。

 それで今度は三角理事長のところへ趣意書を持って行きましたら、「1000万ですか。できますかね?」と言われました。今「協力します」と言われて「良かった」と思ったら、今度は「できますかね?」と言われてがっかりはしましたけど、私は「先生、できるかできないか、とにかくやってみます。髪振り乱してでも走り回ります。陸連へも学連へもお願いに上がります」と言いました。

 そうしたら「そういうところへ行くんですか?それは困りますね」と言われたんです。それで「困りますねって言われたって先生、陸連の方も学連の方もよく存じ上げており、長いお付き合いですから、私個人としてお願いに上がります」と申しあげたら、黙っておられました。

 それで松徳会の会長にも「松徳会の後ろ盾も欲しいので、評議員会にかけていただけないですか」とご相談しましたら、「世界的な人は人見さん以外にもおります。」と言われまして、私もカチンときて「人見さん以外に誰があるんですか!絶対に評議員会にかけてください」と申し上げました。

 そうしたら「評議員会にかけたところ、大部分の方々が陸上のOG会でおやりになったらどうですかと申しています」というご返事がきまして、「それじゃ私達だけでもやろう!」と覚悟を決めました。同窓の石井先生も人見さんの本を読んで「やろうよ!」とおっしゃっていただいて、それが始まりなの。

 募金総額も相当でしたけれど、あの当時、本当に陸連や学連の人たちには気持ち良くご協力いただき、卒業生、大学の教職員、外部の方からの応援もありまして、建立することができました。碑文には人見さんの業績を書いて、発起人として日本女子体育大学・陸上競技部・OG会・卒業生一同とだけ入れました。これはほんとに人見さんだからできたんです。

 そんないきさつもありまして、私はもうあれができただけで精一杯です。お忙しいところ、最後にくだらん話をいたしました。「今日はもう最後だから、思いのたけをお話しよう」と思って来ました。ここまで喉に詰まっていたことの半分以上は言いましたから、何も思い残すことはございません。