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菅野瑞穂 生産系
農業・イベント企画運営
菅野 瑞穂(2009年度・健康スポーツ学専攻卒)
農業株式会社経営
きぼうのたね、蒔いています

 菅野さんは大学卒業後、実家に戻って農業を始めました。翌年、東日本大震災が起こって、原発事故により農業を取り巻く環境が一変しました。そんな中、会社を立ち上げ、震災への取り組みを伝える農業体験イベントを始めました。原発事故から5年が経った現在の状況を聞きました。

<2015.10収録>

———前回のインタビューはちょうど5年前の今頃でしたね?

 あの時は卒業して1年目で、農業を始めたばかりでした。翌年の2011年1月、福島県の農業者団体の主催でニュージーランドに研修に行ってきました。ニュージーランドの農業はなんて言うか、根本的な話をすれば完全に産業なんですよ。
 初期投資で銀行からパンとお金を借りて、一つに集約して大規模化して、90パーセント以上が輸出用として出荷するといったような。とにかく全てがビジネス志向で、日本の代々続いている昔ながらの農業を守るような意識とは全く違っていました。
 「日本も補助金に頼らず自立できる農業を目指さないと。」と思いました。既にそうしている日本の農業者もたくさんいるんですけどね…。

———東日本大震災の時は何をしていました?

 ニュージーランド研修の報告会で、地元の農業関係者と安達太良山の麓の温泉旅館にいました。私はスライドの準備をしている時で、突然激しい揺れが襲って来て、色んな物がボロボロ落ちてきて「建物が崩れるんじゃないか。」と思いました。
 外に出て車のナビでニュースを見たら、津波の映像が流れていました。報告会は中止になって、みんなクルマに乗って帰りました。すごい雪が降ってきて、戻ったら私の家でもいろんなものが崩れ落ちていて、跡片付けをしていました。
 原発が爆発したというニュースが流れたのは、それからすぐだったと思います。私は、それが自分の生活にどういう影響を及ぼすのかほとんど想像できませんでした。でも私の親やチェルノブイリ事故を知っている世代にとっては、「これは大変なことになる。」と思ったようです。
 爆発の数日後に雨が降りだしました。私は、ハウスのビニールを降ろしに外に出て行った記憶があります。冬場はハウスの土に水分を含ませるためにビニールをあげているのですが、少しでも土を守ろうと思いました。雪はもう残ってなくて地面は露出していました。
 いま思えば、その時には既に線量が相当高かったと思います。雨や雪の時が特に線量が高くなると言われていて、気流に乗って放射能が流れて来て、事後報告では10マイクロシーベルト以上はあったようです。

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———原発の建屋が吹っ飛んで、ますます深刻な状況になっていきましたね?

 16日に私の母校の体育館に、浪江町からの避難者がやって来ました。最初は原発からかなり離れた集会所に避難していたんですが、実はその地区が一番線量が高かったようで、国の指示でまた移動して「ここはダメ」「ここもダメ」と二転三転した末に、東和地区にたどり着きました。
 放射能は目に見えないので、どこが線量が高いなんてわからないじゃないですか。放射能から逃げてきたということで、地元の人は「車に付着してるんじゃないか。」とか、そういう心配もするわけですよ。支援物資がすぐには届かなかったので、私も家にある古着を持って行き、炊き出しを手伝ったりしました。
 間もなく隣の川俣町も避難指定区域になって、「二本松市民も自主避難した方がいいんじゃないか?」と周りで騒ぎ始めました。私も「この先、果たしてここでやっていけるのか。」と不安になりました。連日、原発事故関係のニュースが流れて、福島にいるだけで息が詰まりそうになるので、3月の末に東京の知り合いのところに行きました。

———避難する人がたくさんいましたね?

 新潟県が福島県からの避難者を受け入れていると聞き、私も紹介していただいて佐渡ヶ島に行ってみました。けれど向こうでは何もすることがなく、旅館には避難してきた人であふれていて「ずっとここにはいられないな…。」と思いました。
 テレビで「南相馬の人が津波で家族を失ない放射能の被害で仕事もなくなった」というニュースを見て、「自分には家族もいるし土地もある。仕事も全くない状態じゃない。自分よりも辛い思いをしている人たちのために何かできることがあるんじゃないか?」と思い、福島に戻ることにしました。けっきょく佐渡には3日間しかいませんでした。
 戻っても何をするべきなのか具体的なことは思いつきませんでしたが、「取りあえず現場で何が起きたのか確かめてみよう。」と思い、南相馬に行きました。震災から1カ月後の南相馬は、皆、放射能から逃れて、人が全くいなくて、わずかに集会所などに残っているだけでした。
 南相馬で農民連の人たちと一緒に、集会所に避難物資を届けたりしていて、津波の被害の跡も自分の目で確かめました。「これは本当に大変なことが起こったんだ。」と実感しました。

———農業への影響は?

 私の住んでいる東和地域は、農業を再開できる、できないで言えば、ギリギリのボーダーライン上でした。いったんは、牛乳も葉物野菜も全部出荷停止になって、「作付けは国の調査を待ってから。」という国の指示が出ました。
 モニタリング調査をして、部分的に線量が高いところもあったので「さらに詳しく調査する。」となり、作付けは延期になりました。4月12日にやっとOKとなって、その時点で始めるにはもう遅いんですが準備しました。でもその年の田植えは、私は「本当にやるの?」という感じで全く気がのりませんでした。
 「作ってもし基準値を超えたら賠償請求すればいい。」という意見もありましたが、私は「せっかく作るなら、ちゃんとしたものを作りたい。」と思っていました。捨てるようなものなら作りたくないし、どうなるかわからない状況で作るのでは、思いを込められないというかただの作業に過ぎません。

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———放射能の身体への心配は?

 ありました。なので、作業する時はマスクをして帽子をかぶったり、長袖、長ズボンを着ていましたが、5月、6月とだんだん暑くなってくると、そういう意識も少しずつ薄れていくんですよ。ただちに健康被害はないと言われていましたが、ふとした時に「自分も将来どうなるかわからない。」と不安になりました。
 他の場所で有機農業をやっている方から、「若者がそんなところで農業やってたらいかん。場所を用意するからこっちにおいで。」という話をいただいて、「本当にここにいていいのか?」と気持ちが揺れました。

———それでも福島から出て行かなかったのはどうしてですか?

 単純に地元が好きだったのもあるし、農業ってやっぱり地域に根ざしたものなので、「他の場所で農業やるのもちょっと違うかな。」って思ったので。困難な状況の中でも、「みんなでとりあえずどうなるかわかんないけどやってみよう。」という前向きな気持ちが、周りの仲間や親にもありました。
 特に周りに自主避難する人がいなかったのは大きかったですね。東和地区は、ほとんどの人がここに残って頑張っていました。逆に、福島市や郡山市の方が自主する人が多かったようです。

———その頃に東和地区に移住してきた人は、逃げるどころか、逆に居着いちゃったりしましたね?

 それは本当にすごいことだと思います。有機農業をやりたくてこの地域に来たのに、その基盤となる土がほとんど失われている状態で、ここで生きていく選択をしたのは、農業だけじゃなく回りの人との繋がりや自然環境、そういうのを全部ひっくるめて決断したんだと思います。

———でも有機農業は土が命じゃないですか?そこに放射能がばら撒かれたら、台無しじゃないですか?

 台無しです。とりあえず実態を調べないとわからないので、新潟大学の協力で、水や土の検査、山の汚染の状況を調べました。どこがどのような汚染状況なのか「見える化」をし、それを土台にして、果たしてこれから有機農業が成り立つのか考えました。
 そこからわかってきたのは、土を耕すことでセシウムが拡散されて、セシウム濃度が下がるということでした。粘土質的な土と有機質がセシウムを吸着するので、農作物には移行しないということもわかってきました。福島の土の特性と有機の力によって農業が守られたんです。
 セシウムは年々減っていて、3〜4年目でほとんど検出限界値以下になりました。ただ今でもゼロではなく、微量ですが含まれています。いまだに気をつけなくてはならないのは、山になっている山菜やきのこ、自生している栗や柿などです。
 山は大規模な除染はできないので、放射能が降り積もったままです。落ち葉の中の微生物が繁殖して分解されるような、ゆっくりとしたサイクルでしか変化しません。山を研究している人によると、カビが発生することによってセシウムが広がることもあるらしいです。
 線量が高いところは伐採するしかなく、でも木を切り過ぎると、今度は里山の原理が働いてちょっとの雨でも山が崩れたりしちゃうんです。この前も飯館村で、表土をはいで詰めたフレコンバック(除染袋)ごと、大雨で流されてしまいました。

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———作物への風評被害も起こりましたね?

 それまで取引していただいていた流通先は、ほとんどキャンセルになりました。米も、大阪に送っていた半分がキャンセルになりました。
 一方で、「会社として応援するので野菜を送ってください」とか、「お米を送ってください」という方も現れました。そのおかげで、大阪に行くはずだったお米は九州に届けられました。震災から1、2年の間は、本当にいろいろな方の支援に助けられました。それがなければ心が折れてしまっていたかもしれません。
 ただやっぱり最初の年や、2年目は、イメージも先行して福島産の消費は控える方が多かったと思います。いくら基準値以下でも米の中に少なからずセシウムが含まれているわけで、私も自分が子どもがいる立場だったら、福島のものは食べさせなかったかも知れません。
 そういう人達を変えるのは難しいので、新たな信頼関係を一から作り直す必要がありました。「応援したい。」とか「福島のものを食べてもいいよ。」っていう人達に収穫物を送ったり、時々首都圏に行って、販売活動をしながら現場の状況やセシウムを減らす取り組みを伝えたりしていました。

———そんな中で、会社を立ち上げようと思ったのは?

 内閣府の依頼で、福島連携復興センターや福島県内のNPOが窓口になって、東北の起業家を育てようという動きがあったんです。起業のための資金的なサポートをしてくれるということでした。「補助金でやるのはどうかな?」とも思ったんですけど、周りの人に「せっかくの機会だから。」と勧められ、応募しました。
 それまでにも夏休みとかに大学の先生や後輩たちを招いて、農業体験をしてもらったり、リンゴ農家の除染作業を見たり、汚染マップを見て福島の農業の現状を共有してもらったりなどの活動はしていました。「会社にすれば、そういう活動ももっとしっかり伝えられるかな。」と思ったし、大学生の時からいつかは起業したいという気持ちもあったので。
 自分なりに事業計画書を練って、2012年の7月に福島大学でプレゼンテーションをしました。9月くらいに審査が通って、翌年3月の立ち上げを目指しました。実際に起業した人に話をお聞きしたり、経理のことを勉強したり、2年後、3年後、10年後にどうなっていたいか考えて事業計画を立てました。
 ちょうど同じ時期に、旅行会社のHISから「一緒にやりませんか?」というお誘いがあって、震災への取り組みを伝える「エコスタディツアー」をやることになりました。13年の3月に会社が始動しました。主な業務は農産物の販売と農業体験イベント、将来的には農家民宿も考えていました。

———「きぼうのたねカンパニー」の誕生ですね?

 農産物販売は、道の駅やマルシェでの販売をメインに、通信販売も始めました。知り合いのデザイナーにホームページを作ってもらって、農業体験イベントの告知や農産物販売もできるようにしました。ホームページを見た人から、色んな反響がありました。

———どんな人たちが農業体験に来ましたか?

 最初は圧倒的に女性ばかりでした。私が女性だからだと思うんですけど、特に同世代の女の人たちがたくさん来ました。高校生や大学生の友達同士で来たり。地元ではそれが新鮮だったらしく「なんでそんなに若い人がいっぱい来るの?」と不思議がられました。
 首都圏から来る人が多いと思っていたら、岡山、大阪、京都、奈良、北海道とか、みんな遠くから来てくれるんですよ。福島の震災後の現状を知りたいけれど、福島に行くことに対して不安を抱いていて、それまで行く機会がなかったという人が多かった。
 やってみると、震災復興に関心をもっている人たちが来ているので、みな自分の考えをしっかり持っていて、意識の高さに驚かされました。2013年から始めて3年目ですが、再来週も脱穀のイベントがあります。リピーターも多くて、前回の稲刈りで4回目という人もいます。

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———活動がいろんな雑誌に取り上げられたりして、一時は「時の人」みたいになっていましたね?

 皮肉なことに震災が、自分に取ってはタイミングというかチャンスになりました。自分自身、特にすごいことを成し遂げたとは思っていませんし、普通にやってきたことがたまたま周りから評価されたというか、「見てくれていたんだな。」と思います。
 でも、メディアに取り上げられるのはちょっとこそばゆいと言うか…。農業は地道な作業の繰り返しだし、べつに大金を稼いでいるわけでもないし、周りには私よりすごい先輩がいっぱいいるのに、いいところばかりフォーカスされて、本当の自分よりずっと先に行っちゃっているような…。
 周りから「いつも元気で頑張っているね。」って言われると、そういう自分に嫌でもならざるを得なかったり、いろんな意味でメディアによって形作られた自分がいて、それがやっぱりストレスで、最近は取材もお断りすることが多くなりました。

———会社を経営してみて?

 会社として利益を生み出すためには、普通に野菜を作っていても駄目ですごい頑張らないといけません。お金が流れる仕組みとか、そういうことを考えさせられました。儲けるだけの農業じゃないとは思うんですけど、会社を経営するにはお金は必要じゃないですか。
 経営的にはトントンと言うか、自分の給料を払ってギリギリです。人を雇う人件費まで生み出すのは本当に大変で、研修制度とか新規就農の名目で県の補助金が出るのでそういうのも考えています。
 農家民宿を始めるために、事業計画書を作って銀行と何回も打ち合わせしていたのですが、結果的にはうまくいかなくて計画は白紙になりました。そんなこともあって今年の夏は落ち込むことが多く、これからのことを見失う時期もありました。

———これからはどうしていきたいですか?

 農作物は、道の駅やマルシェ、ホームページからの注文も入ってきて、販売ルートはそれなりにあるので、プラスアルファのことをもうちょっと考えていきたいですね。「福島」だから「応援」というよりも、安心安全をベースにしてひとつひとつの農産物の美味しさやクオリティを追求していきたい。
 農業体験イベントは、来年からちょっとスタンスを変えようと思っていて、最近は純粋に「農業体験がしたい。」とか、「餅つきがしたい。」とか「農家民宿に泊まってみたい。」という人も多くなってきたので、純粋に地域の魅力を観光資源として利用するような企画を考えています。
 また、大学生の時から人の成長に携われるようなことを農業分野でやっていきたいと思っていて、これはビジネスとしてはまだ未熟ですが、中学生や高校生に農業体験プログラムを通して食のことを一緒に考えたりするのもやってみたいです。
 体験というのはやっぱり心に残る財産だと思います。あまり「お客さん第一」と考えると接待みたいになってしまうので、自分自身が楽しんでやるようにしたい。

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———これから避難解除になって住民が帰還してくる地域もありますね?

 私の住んでいる東和地域は、移住者が移り住んで来たり農業活動も活発になってきているので、ある意味「希望の光」なんですけど、隣の山木屋地区は、これから避難解除になって帰ってくる人たちがいて、いまだに「影」の地域です。
 除染のため表土が剥ぎ取られているので、農業を再開するにしてもマイナスからのスタートで、一度住まなくなった地域に生活を取り戻すのは大変です。若い世代は戻らない選択をしている人も多く、高齢者しか戻って来ない可能性が高い。
 そこで何ができるか、私も考えていきたいと思います。時間はかかるしハードルは高いんですが、ひとつ火がつけばバッとなる可能性もあります。線量が高かった場所で農作物を作るのは躊躇するので花卉栽培をやってみるとか、山木屋地区の復興を応援したいという人達を集めて土作りから始めるとか…。

———日本の農業はこれからどうなると思いますか?

 TPPも決まったし、農業はこれから本当にビジネス化していかないと。いろんな意味で変わらなくてはいけないタイミングだと思います。小規模であればあるほどコストもかかるので、どうやって付加価値を見出せるか、ありきたりじゃなく誰もやってないからこそ価値を出せるようなことをやっていかないと。
 徳島県でIT企業が民家を改造して働いていたり、都会に住む人が「地方で豊かに暮らしたい。」とか、地方にも目を向け始めているので、そこはチャンスだと思います。そういう時代の背景も視野に入れながら、農業を基盤にした移住や起業のコーディネートも考えています。
 大規模集約とか6次産業化とか色んなことが言われていますが、私はやっぱり「楽しい農業」をやっていきたい。農業体験も「楽しかった。」って思わないと「またやりたい。」ってならないから。

———農業には、きぼうだけではなくビジネスのたねも必要なんですね。

 あとは、前から思っているんですけど、やっぱりパートナーかな。1人でやっていたから広がらなかったし、頼れないこともたくさんありましたから。

———それじゃ農コンもやらないと(笑)。

 いや、そういうのでは期待していないですよ(笑)。

 菅野さんは、キャリアサークルのリーダーとしてばりばりシュウカツをやっていましたが、4年生になって方向転換をして、卒業後は実家で農業を始めました。

<2010.09収録>

———卒業して半年ですね。

 今日は、高速バスで東京に来ました。東京はビルが高いですね。学生時代はこんなところに住んでいたんだなって、今思うとちょっとびっくりです。

———農業の仕事、やってみてどうですか?

 農業って面白いですよ。全然飽きないです。自分が育てている作物はほんとに子どものようで、責任が生まれるというか「見てあげなくちゃ。」という気持ちになります。毎日野菜に向かって話していて、今では野菜がいちばんの話相手みたいな(笑)。でも野菜の気持ちがわからないとすぐだめになっちゃうんです。
 「農業と教育は似ている。」って父も言っています。例えば、暑いのにハウスを開けておかないと、植物は「暑い、暑い。」といって水を欲しがる。子どもと一緒で、植物に対してストレスを与え続けると、カビが生えたり変なところができたりするんですよ。いかにストレスなく育てるかで、作物の出来具合が全然変わってきます。
 もともと実家は農家だから農業は知っているつもりだったのですが、実際に現場に入ってやりだすと最初は何をやればいいのか全然わからなくて、自分の未熟さを実感しました。作物の状態を良く見て、肥料はいつ与えるとか、こういう場合はこうするとか色んなことを、ひとつひとつ親に教わりながらやっています。今年1年間は学びの年です。

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———どんなものを育てているの?

 主に米と野菜、桑の実などです。4月の田植えが終わると、6〜7月には桑の実がピークになり、9月まではハウス栽培のトマトが主です。他にも家庭菜園の畑で色んな野菜を育てています。トマトがだんだん育たなくなって来る頃に稲刈りが始まり、稲刈りが終わったら脱穀、その後はハウスで大根や白菜などの秋野菜、10月くらいまで忙しく働きます。
 でもうちが一番忙しいのは12月で、お正月用のお餅セットを作っているので、毎年寝る暇もなくやっています。始めてから今年で10年になるんですけど、結構口コミで広まってきて収入源としても大きいんですよ。

———収穫物はどこで売るのですか?

 野菜は主に道の駅に直売で出しています。他にも高速道路のサービスエリアの特産品コーナーに出したり、農協や農民連にも少し出荷しています。
 うちが出している道の駅は、地元で作った野菜や加工品だけを並べているので、ちょっと注目されています。100人近い生産者が出していて、それぞれの商品に生産者の名前がついています。「この人のだから買っていく。」という指名買いのお客さんもいて、生産者の名前がちょっとしたブランドにもなっているんですよ。
 お餅のセットやお米は、毎年買っていただいている方に送ったりしています。野菜もその時々で収穫したものを詰め合わせて、希望する方に送っています。ブログをやっているので、それを見た人から注文をいただいたりします。この間もニチジョOGの方にお送りしました。私のブログを時々見てくれている人がいて嬉しいです。

———1日、どんな風に働いているの?

 太陽と共に動いているので夏と冬で違いますが、夏は5時半くらいに起きて、朝ご飯の前にハウスに行き、トマトに水をあげたり収穫したりします。トマトはすぐ赤くなっちゃうので、どんどん採って出荷しないと採りきれなくなっちゃうんですよ。それから7時半までにトラックで道の駅に出荷しに行きます。
 朝ご飯を食べてちょっと休んでから、またハウスに行ってトマトの世話をします。トマトは葉っぱが多いので、実を採ったら下のほうの葉っぱは「葉っぱ掻き」と言って取らなくてはいけません。またどんどん上に延びていくので、下の方の実を採り切ったら「段下げ」と言って、トマトを吊るしているひもを緩めて下に下げます。そんなことを7ハウスぶん、汗だくになりながらやっています。
 日中は暑すぎてハウスの中に居られないので、お昼ご飯を食べてから2時くらいまでお昼寝します。午後はまたハウスに行って収穫をしたり、畑に行って他の野菜を収穫します。暗くなると、仕事は終わりです。夏は7時過ぎかな。出荷するために採れたトマトを袋詰めしなくてはいけないので、たくさん採れたときは晩ご飯のあとも働くことがあります。寝るのは、だいたい11時か12時くらいです。

———結構忙しいですね。

 でも自分は、東京に居たときのほうがむちゃくちゃ忙しかったような気がするんです。感覚的なものなのか、ここに居ると時間の流れがゆったりしている。ずっとトマトを採っていて、ふと時計を見ると「まだこんな時間か。」と思ったりします。
 だから逆に家で何もしていないと「何かしなくちゃ。」という気になっちゃうんです。家にいると中々ゆっくりしている気分になれないので、休みの日にはカフェに行ったり友達と会ったりしています。

———お休みは決まっている?

 野菜はずっと成長し続けるので世話を休むわけにはいきません。野菜を1日採らなかったら、次の日は倍になって自分に跳ね返ってくるんです。なので用事があるときは、家族の人に世話を頼んで出かけます。週1回くらいは農業に時間を取られないようにしたいと思っているのですが。

———つらいと思うことはありますか?

 家に帰って農業をやるようになって、いちばんつらかったのはプライベートな時間がなくなったことです。餅の加工場や事務所も家の隣り合わせで、ずっと家族と一緒に仕事をやっていると、自分の時間がすごく欲しくなります。
 だから最近は、夜は意識的に部屋に籠って、自分だけの時間を過ごすようにしています。そういう時間を大切にしないと、オンとオフのメリハリがつかないで、精神的な余裕が生まれないようです。

———給料とかは決まっているのですか?

 会社組織ではないのでちゃんとしたものではないのですが、家族協定としてお給料はもらえています。また自分自身でもどうやって収入を増やすかということを考えて、農業以外にもいろんなことをやっています。
 高校でカヌー競技をやっていたので、地元でカヌー大会があると声がかかり、その時にカヌー指導料をいただいたり、農業をテーマにしたワークショップや体験授業をやったり。地元の学生が中心になって立ち上げた地域活性化を目的にしたプロジェクトでは、学生たちと一緒に桑の実採りや、田植えなどをやりました。いつかニチジョ生ともそういうのを一緒にできたらいいなと思っています。

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———ニチジョ時代のことを教えて?

 大学時代はセパタクローをやっていました。全日本チームでプレイしていました。今もセパタクローは続けていて、試合に参加したり地元チームの指導をしたりしています。
 2年生の学園祭の時、キャリアセンターの講座を受けた学生達と一緒に、カフェのイベントをやりました。それがすごく面白かったので、その時の仲間で「スタイル」というキャリアサークルを立ち上げて活動を始めました。その頃の仲間とは今も繋がっていて、時々みんなで集まったりしています。
 3年生の秋からシュウカツを始めました。社長に会いに行くことを活動の軸として、いろんな業界の社長のお話を聞きに行きました。結果的にベンチャー企業が多くなって、あの頃はベンチャーでバリバリ働くことにあこがれていました。
 「スタイル」のリーダーをやっていたこともあって、他大のキャリアサークルの代表やキャリア意識の高い学生に会ったり、「逆求人」を売りにしているシュウカツイベントにブースを出して、自分の活動をアピールしたりもしました。
 そんなことをやりながらも、「いったい自分は何をやりたいんだろう?」とずっと考えていました。面接も人材サービスやコンサル系を中心に20社くらい受けていましたが、結果的に内定まで至った会社はありませんでした。3年生の終わりに、一回自分を「リセット」しました。
 春休みに10日間くらい一人旅に出ました。中国地方や九州などを回り、いろんな人に会って、いろんな話を聞きました。で、そこで始めて農業というのが自分の頭の中に浮かんできたんです。家は農業をやっていて、子どもの頃は自然の中で日が暮れるまで泥んこになって遊び回っていました。
 4年生になって、農業のことを色々調べるようになりました。「農家レストラン」というものがあると知り、それに興味を持ち、自分もそんな人が集まれる環境を作ってみたいと思いました。そこでセミナーを開いたり、色んな活動をやったら面白いんじゃないかと。だんだん、自分の目標はそこだと確信を持つようになりました。
 実現するにはどうすればいいのか真剣に考え始めました。農業関係の会社に入ることも考えましたが、まずは現場を学ばないと何もできない。実際に土に触れて作物を育ててみるしかない。家に戻ることを親に言ったのは卒業間際の1月でした。電話で言いました。親は嬉しかったのかなと思います。

———農家レストランの夢は続いていますか?

 はい。まずは自分の土台として3年はしっかり現場を学ぼうと思っています。今は、色んな農家レストランや観光農園、オーガニックカフェなどを見て回っています。農家レストランは、交通が不便でもおいしければお客さんが集まってくるようです。自分は野菜や果物などの収穫体験ができて、宿泊や食事もできるようなものをイメージしています。
 早く自分で経営をやってみたいと思いますが、その前に一旦企業で働いてみるのもいいかなと思っています。方向性さえあっていれば別に農業じゃなくてもいいんです。全てのことが農業につながると思うし、組織や経営に関することを学べると思うので。
 でも農業をやり始めたら、他にもやりたいことがたくさん出てきました。今は来年をにらんでこうしようというのを色々考えています。

———例えばどんなこと?

 個人的には山羊を飼いたいんです。チーズも作れるし、草刈りもしてもらえます。親にずっと言っていて、最近やっと許可をもらえたのでこれは実行できそうです。あとヨーロッパ系の農業も見に行きたくて、手始めに1月にニュージーランドに行ってこようと思います。
 農業をもっとおしゃれなイメージにするとか、その人ならではのブランドを作り出せれば強いんですよね。今、色々見て回って勉強していますが、やっぱり売れているものは特徴があるものだと思います。自分のイメージするものに近づいていくにはどうすればいいかを考えるのは面白いですね。
 都会から人がくると、自分たちは当たり前だと思って生活していたことに驚かれたりすることがあります。家に土間があったり、風呂を薪でわかしていたり、星がきれいだったり。そういうことを逆に自分達が気づかせてもらえる。

———農業は大規模化しなくてはと言われているけど、どう思いますか?

 大規模にして機械を導入して効率良く生産するという発想ですよね。問題は販売で、作った分をどう売るかだと思います。取引先とかそういうものがバックにないと、いくら生産しても買ってもらえませんから。自分は今は自分のできる範囲でやっていきながら、将来的には会社にすることも考えていきたいです。会社にして成功しているところはたくさんあるみたいです。

———ネット販売に関しては?

 ネット販売はまだやっていませんが、消費者と直接つながれる関係がいいですね。うちでもリピーターというか、毎年買ってくれる人は大事にしていきたいと思っています。ただ個人農家がネット販売で利益を出していくのはけっこう難しいと思います。
 今、個人のお客様から来る注文は、2000円とか1500円とかなので、一箱ごとに野菜を詰め合わてチェックしながらやっていると、手間はかかる割に売り上げは少ないんです。それがまとめて10セット、20セットってなればもっと効率的になるので、売れ筋の商品をドーンと載せて、ある程度の量を売る必要があると思います。
 利益という点では、加工品をやるのが重要なんじゃないかな。加工して付加価値を付けて売るのがいいと思います。ほんとはうちも、瓶詰めなどの加工品をもっと増やしたいんですが、機械を取りそろえるだけでも結構お金がかかるんですよ。今のところ、餅以外の加工品は外に頼んでいます。トマトを工場に送ってそれをトマトカレーに加工してもらったり。

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———ところで今、山や畑が荒れているそうですね?

 そう。山が荒れると、野生の動物がすごく出てくるんですよ。この間も庭に狸がいてびっくりしました。山を荒らしておくことによって、動物がどんどん民家のほうに進入してくる。イノシシも出てきて畑を荒らしているし、今年は「マミ」という動物(日本アナグマ)にトウモロコシを全部食べられちゃってショックでした。
 畑が荒れているので、もう一度、一から開墾して土作りから始めるようなこともやってみたいです。そういうのも、大学生達と一緒にプロジェクトでやれたら面白いと思う。人を泊められて畑もできるような場所を作って、子ども達を集めてワークショップとかをできたらいいな。「よし、やるぞ!」っていう感じの学生が何人か出てきたら一緒にやってみたいです。

———最後に農業を始めてみたいという人へのメッセージを。

 私の場合は家が農家でしたが、新規就農をする場合は、自治体のなどの支援体制がしっかりしているところがいいと思います。まずは農業株式会社みたいなところで現場を学ぶというのも手ですね。
 最初はやはり誰かに学ばないと。何も知らずに始めると、肥料もわからない、水くれもわからないから枯れますよ。私も今だに「なんでこうなるんだろう?」って不思議に思うことがいっぱいあります。同じように肥料をやって、同じように水をやっていても、隣同士で作物の状態が違ったりするんです。
 「野菜は人の足音で育つ。」と言います。結局どれだけ愛情を持って見てあげるかだと思います。